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Oct 21 Sun. 2018

人生設計

(長くなったので読まなくていいです)

 人生設計という概念は、少なくとも自分に関してはなかったのだが、しかし今にしてみればこれほど重要な概念もない。個人としての収支のバランス、学習と労働の計画、友達付き合いの計画、結婚・子育て、家の購入、すべてその「計画」なしには考えられないものばかりだ。経営の観点からいうならまさに人は人生の経営者なのであって、「経営計画」なしには進めていくことはできない。時にその妥当性をチェックしたり、見直しを行ったり、親や先生などといったステークホルダーに説明する必要もあったりする。出来不出来、甘い辛い、精度の良し悪しはあるにしても、無いままに人生を送るのなんて、時間を無駄にしているようなものであってもったいない限りだ。

 学校は、たしかにあまりにも多くのことを教えてくれた。しかし同時に、あまりにも多くのものを教えないままに卒業させた。教えなかったものを補うのは、親や友達や先輩・上司である。ところが、卒業後の環境によっては、必要な事を学べないまま、無防備で社会に放り出され、苦労するケースも多くある。

 僕が大学で教員免許を取って卒業したのは、ちょうど小泉政権が始まる頃で、学級崩壊が叫ばれ、映画『バトル・ロワイヤル』、小説『野ブタ。をプロデュース』などが出版され始めた、いわゆるスクールカーストが明らかになり始めた頃合いだったと思う。一方で、教員の募集は神戸市(数学)で3人とか、兵庫県全体(数学)で4人とかいうオーダーであり、教員志望者は皆非常勤講師を多校掛け持ちで食いつないでいるような状況だった。

 これからは学校/教育の社会における位置づけが難しくなるとやはり僕はその時に思っていたらしく、当時書いたものにちゃんとそんな文言が残っていた。教育とは、名もない一般の子たちを汎く相手にしたもの、というのが僭越ながら僕の「教育観」とでもいうべきものだったので、旧来普通科高校が必死に追いかけてきたような数学や物理の問題の解き方を中心にした(つまり大学の入試問題に照準を合わせた)教育(もちろんこれは高校入試にも影を落とし、中学入試にも影を落とし、小中学校の教育内容を実質的に定義している)は、早晩「うっちゃられる」運命にあるもののような気がしていた。

 今おそらく、よく調べていないけど、文部科学省あたりは、もはや教育課程を全国一律で定めることからさじを投げ、各自治体で勝手にやってくださいになっていると思う。各自治体はというと、これも明確な方針などあるわけはないから、昔からやってきたことをそのまま続け、クレームが来たら対処するというかたちだろう。つまり、今この世の中にあって、一人残らず身につけておくべき素養とは何なのかという一大テーマを、読み書きそろばんのいわゆる3Rは別にして、定義できている人はもしかして誰もないのではないか。

 僕ならばそれは、やはり「人生設計」をおいて他にないと思う。「人生設計」こそ、本人の適性や親の経済力を問わずして、また親任せにすることもふさわしくない、あまねく全日本人に必要な教育内容であろう。

 僕の親は正直言ってその感覚に乏しかった。結婚して家庭を持つ意味においても無反応だったし、周囲や環境につつきまわされた挙句、本人の意志を脇へおいたうえで事故的にくっついた感じが満載であった。したがってこうした親に、「人生設計」を子どもに教えさせることを期待することができない。「人生設計」ができるかどうかは、生涯所得を左右しかねない重要問題であるにもかかわらず、それがその親に依存しているとすれば、これこそ「格差の継承」になるのであり、従って学校が教えるべき、また学校が教えるしかない、内容なのである。

 「将来何になりたい?」と聞くだけが人生設計を教えることではない。プロ野球選手もサッカー選手も、稼げているのはひと握りという現実がある。才能が物を言う世界でもある。夢だけで生きていけるわけでもない。その事情をちゃんと調べた上で、その上でどう生きていくのかを、子どもたち自らが選択しなければならない。

 徴兵されるなんてこともなくなり、親が決めた人と結婚しなければならないなんていう制約ももはやなくなった日本において、子どもたちは大手を降って自由の恩恵を享受できる立場にある。願わくばそれが本人たちにとって十分な稔りと納得性のあるものとなるよう、地図とコンパスだけは与えてやらなくてはならないのではないか。