書籍
- コイツの「日本篇 第八章」をまとめる。
明治初期
- 1869 M2 民部省地理司
- 政府内に神祇・太政の二官、
民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省設置。
地図行政を民部省地理司が担うことに。- ただ、当時は地誌の編纂や地理資料の蒐集が主な任務。
- 「天保国絵図」の訂正を行う程度。
- 洋式測量・地図作成には至らず。
- 政府内に神祇・太政の二官、
- 1871 M4 工部省測量司
- 東京府下および京都、大阪と、神戸、横浜など開港地を三角測量開始。
ただし、完成しないまま内務省地理局(後述)に移管。
- 東京府下および京都、大阪と、神戸、横浜など開港地を三角測量開始。
- 1872 M5 陸軍参謀本部間諜隊
- 兵部省が陸海軍二省に分かれ、陸軍に参謀局として間諜隊が存置。
- 陸軍参謀本部陸地測量部の前身。
- 1873 M6 地租改正条例(太政官発布)
- 1874 M7 内務省地理局(地理寮)
- 民部省地理司と工部省測量司の業務が内務省地理局に移管。
- 1877 M10 「地券図」全国各町村の地籍調査
- 1分1間=6百分の1の地籍図の作成を指示。
- この地図によって地券を発行し徴税その他の基礎図となった。
- その他内務省では・・・
- 「日本全国輿地図」(160万分の1)
伊能図を基礎、従来の諸図も参考。 - 「実測東京図」(5千分の1)工部省時代の測量を用いる。
各地番ごとに区画を示した「地籍図」。
- 「日本全国輿地図」(160万分の1)
軍用地図の作成
- 1877 M10 西南戦争勃発
- 陸軍が急遽「迅速測図班」を編成して軍用地図の作成。
- 三角測量ではなく図根点測量で作図可能。
- 1878 M11 陸軍に地図課・測量課
- 参謀局を廃止。参謀本部を設置し、地図課・測量課を設置。
- 西南戦争の経験を生かし全国的な迅速地図の作成に着手。
- => 関東地方「迅速測図」(2万分の1)
- => 近畿地方全域「仮製地形図」(2万分の1)
- 1884 M17 陸軍参謀本部測量局
- 地図作成においても軍事優先を明治政府が決断。
- 測量課・地図課を廃止して測量局に統合。
- 1884 M17 万国測地会議(日本も参加)
- グリニッジ子午線を持って本初子午線とすることが議決。
- 伊能図など経緯度入りの地図は経度の起点を京都や東京から移す。
- 1884 M17 小菅智淵「正式地形図」
- 三角測量および水準測量にて「正式地形図」(2万分の1)を作成し、
これをもって全国をカバーすることが計画(のちに壮大すぎて頓挫)。
- 三角測量および水準測量にて「正式地形図」(2万分の1)を作成し、
- 1884 M17 輯製20万分1地図
- 伊能図の中図を基本とし、空白部分を「天保国絵図」や、各府県からの
資料等で補正した地図の作成開始。 - 輯製(しゅうせい)とは、多くの資料を集めて作ったという意味。
- 地形表現はケバ式。
- 明治時代の日本の代表的な地図。
- 伊能図の中図を基本とし、空白部分を「天保国絵図」や、各府県からの
- 1885 M18 小菅の野望「旗宿」「小田原」二図幅完成
- 多面体図法。地形の表現は等高線。当時としては画期的。
- 1886 M19 東京5千分の1図
- 内務省地理局の頃から継続されていた測量により刊行。
- 銅版彫刻。こんにちまでのなかでも最も精緻な地図。
- 石版印刷 -> 写真製版 -> 亜鉛版・アルミ版 へと進歩。
地図のような精緻な図版でも大量印刷可能に。
- 1890 M23 小菅の野望 終える
- 奥深い山地などでは大きすぎる。労力や費用も甚大。
- 2万分の1->5万分の1に変更。
- 2万分の1は将来発展の可能性のある平野部かその周辺に限ることに。
- その後日清日露などで新領土が入手しその測量に手を取られストップ。
- 1893 M26 輯製20万分1地図 完成
- 1910 M43 「2万5千分の1地形図」<-「2万分の1地形図」
- 京浜・京阪神の大都市域では「1万分の1地形図」別に作られる。
- 1924 T13 内地の「5万分の1地形図」ようやく完成
- 本州、四国、九州、北海道。苦節35年。小菅の野望遂に叶う。
- 「迅速測図」はすべて基本図測量により改測となった。
陸地測量部発足〜第二次大戦終結
- 1888 M21 陸地測量部
- 参謀本部の一曲であった測量局が分離し、本部直属の陸地測量部に。
- 以来第二次大戦終了するまでの57年間、測地事業の全ては、
陸地測量部の傘下で統一される。
- 大正〜昭和 外地の測量に主力
- 樺太南部、台湾、朝鮮半島など。
- 台湾「5万分の1地形図」山岳地帯を除いた全域。
- 台湾「2万5千分の1地形図」平野部などの重要地域。
- 三角測量による。
- 樺太南部、台湾、朝鮮半島など。
- 1928 S3 頃〜 空中写真測量が導入
- 地形図がすでに出来上がっていたので修正測量に用いられる程度。
- 各種図版
- 「20万分の1帝国図」<-輯製20万分1地図に代わるものとして。
- 「50万分の1輿地図」
- 「20万分の1地図」朝鮮・台湾
- 「100万分の1万国図」
- 国際地理学会議「100万分の1の地図」提案を受け。
- 国際協定に従い地勢の表現は断彩法。
- 中期は全てローマ字。
- 内地の地図作成=既存地図の維持修正が主要業務
- 民間の地図作成
- 江戸時代よりもかえって劣る有様。
- 測地学や地図学などの鋼材の設置や基礎的研究もほとんど行われず。
- 戦局の悪化に伴い地図発売も全面停止。
戦後:国土地理院
- 1945(S20).08 終戦による軍部解体=陸地測量部も消滅
- 1945(S20).08 内務省内に「地理調査所」
- 1948(S23) 内務省解体
- 地理調査書は内務省国土局と戦災復興員の合併による建設院へ。
- さらに建設省へ。
- 1945-1952 サンフランシスコ講和条約発効まで(占領下時代)
- 戦時中に焼失散逸した原図や資料の整備、
連合軍の司令作業などに忙殺。 - 戦災により現状と合わなくなった地形図を、
米軍から貸与された日本全土の4万分の1の空中写真により応急修理。 - 「80万分の1国土実態図」連合軍司令作業。
土地利用図や人口密度図など8種類の地図を含む。
- 戦時中に焼失散逸した原図や資料の整備、
- 1952(S27) 講和条約発効後=航空機を自由に使用
- 1953(S28) 第一次基本長期計画
- 平板測量によるものは全て写真測量に置き換え。
- 等高線の誤りが訂正。
- 黒1色から3色刷りに変更。
- 「国土基本図」も刊行。
- 1960(S35) 建設省付属機関として国土地理院開設。
- 1964(S39) 第二次基本長期計画
- ユニバーサル横メルカトル図法(UTM)が採用。
台形(梯形)から長方形の外枠に。張合わせて隙間がなくなった。
- ユニバーサル横メルカトル図法(UTM)が採用。